大西洋と新大陸の富
−スペインはこうして中南米に植民した− 小田
康之
500年ほど前のことだ.我が東洋の島国では、応仁の乱の戦火もおさまり戦国の世へと差し掛かったころ、クリスファー・コロンブス(スペイン語読みではクリストーバル・コロン)はそれまでヨーロッパの人々に知られることのなかった「新世界」へと到達していた.このジェノバ生まれの航海者の誤解によってインディアスと呼ばれることになる今日の南北アメリカである.「発見」されたほうにとってはまったく迷惑甚だしいが、このコロンブスによる「発見」とスペイン(ブラジルの場合はポルトガル)による統治がその後のこの地域の行方を運命付けてしまった.
「発見」に至るまでのスペイン
まずは当時のスペインとはどんな国であったのか、振り返ってみよう.
レコンキスタという言葉をおそらく一度は耳にした経験をお持ちではなかろうか.711年イベリア半島にジブラルタル海峡を越えてイスラム教徒が侵入し、瞬く間に北部の山地の一部を残してイベリア半島を支配してしまう.このイスラム教徒をキリスト教徒側が南へ追い返そうと必死に戦った戦争をレコンキスタと呼ぶ.直訳すれば再征服であるが、通常、日本語では国土回復戦争などと訳される.800年近くの時を経て1492年イベリア半島最後のイスラム王国であるグラナダ王国を征服することによってキリスト教徒側から見たレコンキスタは完了する.グラナダ王国征服に先立つ、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの皇太子フェルナンドの結婚によってカスティーリャとアラゴンは連合王国とも呼べる体制を整える.世界史の教科書などでは、これをもってスペイン統一国家の誕生というように説明されるが、この言い方は正確ではない.カスティーリャとアラゴンは、その後も18世紀に至るまで各々の政治、経済の諸制度を保持するからである.通貨も司法制度もすべてばらばら.かろうじて統一的に機能していたのは、異端審問制度のみといっても言い過ぎではないほどだ.
このような状況下、1492年にレコンキスタが完了し、そしてコロンブスによって新世界が「発見」された.これにつづくカルロス1世(在位1516-56)とフェリーペ2世(在位1556-98)の時代に日の沈まぬ大国としての地位をスペインは謳歌する.突然目の前にあらわれたインディアスすなわちアメリカ大陸とどう対峙して行くのか.これは、それまでどんな国家も経験したことのないような大きな挑戦だった.
スペインの大西洋システム
新大陸からの交易品は、金、銀、真珠、染料、エメラルドなどであった.1540年代にはペルーのポトシ(今日のボリビアに位置する)やメキシコのサカテーカなどの銀鉱脈の発見が相次ぎ、その後の水銀アマルガム法による精練技術の発展とあいまって、銀の産出量は急増した.
スペイン側からは、セビーリャの港であるサン・ルカールを年に2回出発する.そのうちの一つ「フロータ」と呼ばれる船団は、メキシコのベラ・クルースに向け、5月に出発する.もう一つの「ガレオン」とよばれる船団は、8月に出帆し、やや南の航路をとって、今日のパナマ地峡のノンブレ・デ・ディオスへと向かう.ガレオンは今日のコロンビアにあるカルタヘーナにて冬を越す.これら航海には5−6週間が費やされた.水は腐るのでワインが代わりに積み込まれたというが、それを飲んでいた船員たちの生活はいかほどのものであったのだろうか.
スペインへの帰路にはガレオンとフロータはハバナ(キューバ)で落ち合うことになっていたのだが、ハリケーンの季節の始まる初夏のころまでにはスペインへの航海を始めなければならなかった.メキシコのフロータは貿易風に逆らってハバナへと向かなければならなかったので、2月にはメキシコ産の銀や染料などを積んでベラ・クルースを出帆する必要があった.パナマ地峡からのガレオンはさらにやっかいだった.というのも、ガレオンはペルーの銀を積まなければならない.ポトシで産出された銀は山道をリャマの背に乗せられ約15日かかってアリカ(今日のチリ北端の都市)の港にたどり着く.そこから船でリマの外港であるカリャオに8日かかって運ばれ、別の船に積みかえられ、さらに20日かかってパナマに着く.港に到着すると今度はラバの背に乗り4日かかってパナマ地峡を越え、ようやくノンブレ・デ・ディオスで待つガレオンに積み込まれる.ほとんど苦行である.このような気の遠くなるような過程を経てスペインの太平洋システムは成り立ち、スペイン本国へと新大陸の富が運び込まれていた.
『セビーリャと大西洋(1540-1650)』(Seville et l'Atlantique1504-1650,
SEVPEN, 1955-59)と題されたフランス語の本がある.ぺエール・ショーニュ(Pierre Chaunu)というフランスの歴史家がその妻と共に著わした全8巻(11分冊)ページ数にして7000ページを優に超える大著である.全巻持ち上げただけで筋肉痛ものだ.こんなとんでも無いものを37歳にして学位論文として提出してしまうのが同じ人間の業だとは到底信じがたい.いずれにせよ、ここにはスペインの新大陸との貿易の姿が圧倒的な情報量で織り込まれている.但し、そのあまりの冗長さや文書館調査の不備などの批判を含んだ書評も出された.その筆者はショーニュの師でもある偉大な歴史家フェルナン・ブローデル(数年前邦訳も出版された『地中海』などの著書で知られるフランス・アナール学派の第2世代)である.ただし、ショーニュには後にこの大著をコンパクトにまとめた『セビーリャとアメリカ16世紀と17世紀』(Seville
et l'Amerique XI-XII Siecle)という著作もある.(筆者の手元にあるのはこのスペイン語訳である.スペイン留学時代マドリードで手に入らず、旅先で飛び込んだセビーリャの本屋でようやく見つけた思い出深い本である.)
様々な批判は受けながらも今日でもその影響力を失っていない古典は、アール・J・ハミルトンの『アメリカの富とスペインにおける価格革命
1501-1650』(Earl J. Hamilton, The American Treasure and the Price
Revolution in Spain 1501-1650, Cambridge 1934、但し筆者の所持するのはArielから1975年にバルセロナで第一版が出たスペイン語の翻訳本)である.新大陸からもたらされる貴金属の量とスペインの物価騰貴を関連付けるこのハミルトンの説から「価格革命」という言葉も生まれた.
本稿執筆に当たりジョン・H・エリオット(John H. Elliott)の著作も参照したことを付記する.
[本エッセーは、1998年1月発行の地域研究組織GEO(現GEO
Global)Newsletter第2号に掲載されたものです]
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